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 倭その5

 夕焼け小焼け
 日本人のルーツ

夕焼け小焼けの「子焼け」ってなんだよ。

 私は八王子市に最近移り住みはじめました。通勤のとき、 ♪夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺に鐘が鳴る。♪ の「夕焼け小焼け」のメロディが八王子駅で流れます。
作詞をしたのは仲村雨紅という人で八王子市の恩方というところで生まれ育ったということのようです。 久しぶりに聴いたこのメロディでくちずさんで見ると、私の頭の中でなんかへんだなあという思いがありました。♪夕焼け小焼けの赤とんぼ♪と混同したからです。 ♪夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれてみたのはいつの日か 15でねえや嫁にゆき おさとのたよりも 絶え果てた。 ♪ メロディーが全く違うのですが出だしの「ゆうやけこやけで」と「ゆうやけこやけの」が原因でした。それでふと疑問に思ったのが「小焼け」ってなんだろうということです。それで辞書で引いてみましたがありません。 言葉の響きや流れ?みたいなものでつくられてあまり意味の無い「接頭語みたいな」ということなんでしょうか?詩だからそんなことはあってもいいのですが、私はそれよりも別な作詞家がどうしてこの「小焼け」を使ったかということです。
「赤とんぼ」は国民的愛唱歌として多くの人が歌っています。「夕焼け小焼け」もおとらずよく聴く歌です。それでどちらが先に作られたかということを調べてみました。「赤とんぼ」は三木露風作詞、山田耕筰作曲です。
1921年(大正10年)に詩を発表、曲になったのは1927年(昭和2年)だということが判りました。一方「夕焼け小焼け」は1919年(大正8年)となっているところと1921年(大正10年)となっているところがあり作曲は草川信という人が1923年(大正12年)発表となっています。
どうやら詩は同じ年代に発表されているようです。微妙ですね。 当時、詩や小説などを仲間内でつくる「同人誌」で発表されていました。いまでいう出版社の原点ですね。批評や意見などもまた別の仲間の同人誌で発表されています。
この同人誌どうしの批評合戦もいろいろなエピソードがありました。 中でも田山花袋の夏目漱石に対する「つくりもの」(字がでない)批判に対し漱石が激怒してやり返したのは有名です。小説のあり方のモチーフのつかみ方において、模倣なのか、ヒントなのか、クリエイトしたのかあたりのやり取りは面白いです。 当然まだ著作権にたいする認識などほとんどなかったと思われるので当人のモラルまかせに対しての突っ込み合いになっていたのだと思われます。
三木露風は北海道のトラピスチヌで教鞭をとっていた頃の作であるということになっています。仲村雨紅のほうはつい最近町田在住のおり作ったということが話題になっています。町田にも碑がたったようです。 露風は早稲田大学の前身である早稲田専門学校出身で同じ学校の野口雨情などと詩を発表していました。
野口雨情といえば童謡作詞家の第一人者です。雨情は北海道の新聞社に籍を置いていたことがあります。あの石川啄木も小樽日報という新聞社にいました。二人が交流をもったことも伝えられています。
年齢的には雨情より露風が七つ下、雨紅はさらに8つ下ということになります。 露風の詩は山田耕筰があとから曲を書いているものが多くどちらかという作詞家としては先に世に出ていたと考えられます。また、仲村雨紅は野口雨情の弟子として師事を受けていたこともありペンネームである「雨」の一字を師匠から貰い受けていたということのようです。
野口雨情は作曲家の中山晋平とのコンビで多くの有名な曲があります。いわばビッグヒットをたくさん世に出しています。 たとえば、シャボン玉、船頭小唄、あの町この町、ショジョジの狸囃子、雨降りお月さん、波浮の港(伊豆大島ですね)、黄金虫などなど。
三木露風はどちらかというと歌謡曲を山田耕筰とのコンビで多く出していますがいまではほとんど聞いたことがありません。
仲村雨紅も発表はしてますが後まで歌い継がれているのはこの「夕焼け小焼け」だけです。
ということで、わかったことは野口雨情を中心とする、いわば同門であったということが想像できます。たぶんどちらかが「いただきましょう」「いいですよ」の関係であったのでしょう。
島崎藤村が新体詩として発表した代表的な「椰子の実」という歌。 ♪名も知らぬとおき島より流れよるヤシの実一つ♪ の詞ですが、あれは民俗学者の柳田国男が日本文化は黒潮に乗って東南アジアから伝わったという「海上の道」という本を書くに至った愛知県伊良湖岬での実体験のエピソードを、友人関係にあった藤村話したことから「いただきましょう」「いいですよ」となったみたいなことでしょうか。
ちなみに日本音楽著作権協会が昭和14年に創立しますがその初代会長は黒澤明の「生きる」の最後のシーン、ブランコに乗る主人公がうたうゴンドラの歌を作曲した中山晋平でした。 ♪いのち短し、恋せよ乙女 ♪ 中山晋平はこの「生きる」の封切りに映画を見た翌日になくなったということです。1952年のことです。私が生まれて三ヶ月です。
余談ですが今回調べていて、野口雨情が藤井清水という作曲家とコンビでたくさん曲を発表していますがこのコンビであまりヒットしたものはありません。そんななかにまったく初めて目にした曲があります。そのタイトルはなんと「赤とんぼ」 おもしろいですね。
♪つんつん飛んでる赤とんぼ 金魚やの金魚はなにしてた  みんなで並んで水飲んでた。 つんつん飛んでる 赤とんぼ 鳥屋の鶏は何してた  みんなで並んでねんねしてた。♪
メロディーは判りませんが何言ってるんでしょうね。こりゃぁ売れないですね。野口雨情の詩はもちろんすばらしい詩がいっぱいありますが難解なのも多いので有名です。
たとえば「7つの子」カラスが7羽の雛がいるのか、ならなぜ「七羽」と言わないのか?七歳の雛?そんなことはないですよね。
童謡がなぜ心にしみるのかという説に「ヨナ抜き」音階、つまり「ファ」と「シ」がないことが日本人の叙情的というか、哀しさをさそうとあります。 それはメロディのことです。 私たちが子供の頃はみんなおしなべて貧しかったように思います。もちろんそうでない人も中にはいましたが、でもその貧しさが大人になって懐かしくなる、だからふるさとの経験を持たない人も童謡を聞くとどちらかというと野口雨情のような「哀しい思い」の詩から子供の頃をを思い浮かべることができ、それが「懐かしさ」を感じるのではないでしょうか?
♪シャボン玉とんだ、屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで壊れて消えた ♪シャボン玉消えた飛ばずに消えた、生まれてすぐに壊れて消えた ♪
これは雨情のこどもが生まれて7日で死んでしまったことを痛んで作ったと言われています。
ということでさらに、補足ですが三木露風は三鷹市下連雀でタクシーに引かれてなくなったそうで私の三鷹の事務所の近くに碑が建っています。
私は中山晋平のすぐ近くの村、北信州の中野市出身です。また、夕焼け小焼けの作曲者草川信は同じく北信州松代の出身です。

2011.9.10