倭その1
 倭その2
 倭その3
 倭その4
 倭その5

 夕焼け小焼け
 日本人のルーツ

その3---倭村の一部に柳沢という地区がある。

これが先にも述べたように2007年に柳沢遺跡が発見された場所である。柳沢遺跡は千曲川と夜間瀬川の合流地点の近くにあり、前出の亀山氏はここに安曇野へと徐福がたどったルートがあり、ハブ港があったのではないかと主張している。また、繰り返すが、遺跡で見つかった銅鐸と銅戈は弥生時代中期の祭司につかわれたこととでこの辺り周辺の首長にあたる人物がいたと思われる。特に銅戈については九州型と機内型が一緒に出土したことが日本の古代史の常識を覆すこととなった。いままで九州あるいは機内を中心とする限られた地域で発見されていた物が同時に同じ場所、しかも内陸でさらに最も北に出たことはこの時代既にかなり広い範囲で交易があったこの証拠となった。
明治時代に島崎藤村の千曲川スケッチでもわかるように遥か上田か当りから飯山まで船で下っているということは船が交通の手段だったことは間違いない。しかも柳沢史という郷土史にも船着き場があり、明治の初め頃までは宿泊施設や遊郭等もあったようである。またその資料に寄ると柳沢の背後にある高社山1352mは飛鳥時代に火山活動が活発化し1566年の鎌倉時代に噴火し、大崩落した。現在の柳沢はその崩落した扇状の土砂の上にある。当然のことながらそれ以前の地形も今とは様子が違っていただろうと想像できる。もう少し山側である東に千曲川が蛇行していたかもしれない。高社山はもっと急な斜面がそびえ立ち、高さも高く、もしかしたら縄文・弥生時代には噴煙を上げていたかもしれない。
そうなると前にも書いたように千曲川の船の往来では今より目立つ山であったことも想像でき、ランドマークとしての役割はさらにに想像できる。 新潟県の信濃川河口からは平野が続き長野県との県境の津南辺りで山の間に入る。千曲川をちょっと下った飯山のさらに北に住んでいた私の友人は子供の頃から毎朝高社山をみながら雨の日も雪の日も上流にある飯山の学校を目指して長い道のりを歩いたという思い出を語っていた。
確かに辺り一面の雪の中では目標となる目印、ランドマークが必要だ。津南から飯山へ出るまでの千曲川は峡谷の間を蛇行しながら河をさかのぼることになり峡谷を抜けると上流の方に高社山が見えてくる。高社山の麓、つまり柳沢にたどり着くと視界はさらに広がることとなる。
また、明治のはじめ頃まで上田辺りまで鮭の遡上があったと伝えられている。それを考えると柳沢辺りにはもっとたくさんの鮭が到達していたと考えられる。柳沢にある私の生家では大晦日に鮭と大根の煮物を食べるのが習わしだが、これもその名残であると思う。今まで私は勝手に年末年始の荒巻鮭は貴重な食べ物なので年に一度の贅沢なのかと思っていたが、昔はもっと手頃に食べられていたといことか。
確かに信州は海の幸はないが、鱒や鯉等を含め食用の魚は人口比率等と考えると今より遥かに豊富だったのかもしれない。

安曇野から白馬を抜けて糸魚川へぬける姫川沿いの道が古くから古代の道として注目されていた。糸魚川の姫川あたりでは翡翠が縄文時代から採集され弥生、飛鳥時代の頃までに日本全国に広まったという。少し前までは日本で翡翠はとれないとされていて現在のミャンマー産と中国雲南の産であるとされていた。しかし今ではほとんどが糸魚川産であるとされている。糸魚川産とミャンマー産の成分分析ではほぼ一致するとのことだ。
縄文時代にミャンマーから中国、朝鮮半島を経由してまたは南方の海上の道を経て翡翠がそんなに沢山伝わったとと考えるより糸魚川の方が信憑性がある。
翡翠は縄文人の勾玉として埋葬品と一緒に出ている。それから二千年もしくは三千年以上、現在にわたり糸魚川でとれたことになる。
古事記には、糸魚川には「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉を身につけ霊力を発揮して統治していて、「賢し女」「麗し女」と言われ、出雲の「大国主命」がこの姫を嫁にするべくはるばる越(古志)の国(糸魚川)までやってきて、 妻問いの後結婚をして一子をもうけた。この子供が諏訪大社の祭神「建御名方命」。だということになっている。
いずれにしても糸魚川は縄文時代から脚光をあびていたにちがいはない。しかし糸魚川は断崖絶壁に挟まれた狭い土地で栄えるような要素はない。その翡翠の加工場跡が日本海沿いに北上した上越の弥生時代の遺跡で多く見つかっている。糸魚川で採取した翡翠を上越で加工、そこから全国に伝わったということか?だとすると姫川をさかのぼって白馬に抜け安曇野にいたる道(現在の長野県大町と糸魚川を結ぶ大糸線ルート)は遠くなる。
安曇野の先には諏訪大社のある諏訪湖そして八ヶ岳山麓確かにこのルートはトンネルならまだしも険しい峠を超えることになり夏なら歩けないこともないが冬期はほぼ無理であろうと想像する。それなら上越からさらに陸路または海を船で下って、信濃川の河口から上流を目指し、柳沢の港で小舟に積み替えて、さらに上流を目指し、分岐で犀川を経て安曇野、またはそのまま上田経由で千曲川源流近くまでさかのぼり、大遺跡群のある八ヶ岳東の山麓へと運んだことも考えられる。また、国土交通省の研究員の言っていたように上越から飯山に抜ける道(長野から上越を結ぶ信越線ルート)は縄文時代からあったと言うことであるからこのルートは難所はすくないことから有力だと思われる。ただその場合、信濃川・千曲川の航路は意味がなく、上越から飯山または柳沢まで陸路で柳沢から船便ということになる。何れにしても柳沢は通過点であることには変わりない。
高社山がランドマーク、柳沢の港。その柳沢があるのが倭村だ。さらにその隣村の名前がなんと科野(シナノ)村(信濃の国の語源とされるのはシナの木)だ。 こちらについてはまた後日。
2014.9.23