倭その1
 倭その2
 倭その3
 倭その4
 倭その5

 夕焼け小焼け
 日本人のルーツ

その4---倭という地名については

先にも述べたようにこの中野市と安曇野と三重県の津にしかない。
安曇野は安曇族という、海人と呼ばれる漁業や船の航海などを業とした人たちだと言う。古代史の本を読むと安曇族は北九州の福岡の志賀島に古くから住み着いていた海を支配する豪族であり、また水軍として日本各地を自由に行き来しながらその勢力を広げたと考えられている。安曇はアヅミと読み、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積などと言う漢字を当てている場合があると言う。熱海や泉などもその変形した物と言われる。
なぜ海人の安曇族が信州の山奥に住み着いたのかは定かではないが、(前出の亀山氏は徐福伝説と結びつけている)安曇野にある穂高神社や住吉神社はそもそも海の航海安全や船等を祀る神社であるようだ。また、穂高神社のお祭りに使われる山車は船の形をしているのも取り上げられていて、海人=安曇族は何か歴史上にありそうだ。
全国に安曇地といわれる名残のある地名が存在する。例えば安曇族の本拠地にある志賀島の志賀神社にまつられているのが海神(わたつみと読む)は綿津見命である。関連した地名は志賀、津などがそれだ。津はそもそも「棲むところ」の意味であり海人にとっては港を意味すると言われている。従って三重県の津も高社山の背後にある志賀高原の志賀も「安曇地」なのであろうか。そうすると安曇野と三重県の津はつながる。
地名というものはいつの時代にどのようにつけられたかということは大事だ。たとえば先日起きた広島県の集中豪雨に寄る土砂災害の際に話題となったのが、知名にはそれぞれ意味があり、後の人たちへの警告の意味も込められているものがあると言う。 この安曇族がどの時代から存在しているのかは定かにはなっていないようだが一説には西暦紀元前473年。春秋時代末期に現在の中国東南部、にあった呉が越により滅亡した。(前漢時代に諸国王が起こした呉楚七国の乱の呉、後漢が滅びて建国した魏、蜀、呉の三国時代の呉とは別) 呉の人々は海岸や長江の入り江周辺に住み、潜水をして魚介を採り、すでにこのころ水田による稲作を盛んに行う半農半漁の生活をしていたという。また船を作る職工が伝統的に多く、主に長江の運搬船や海の沖まで出ることのできる大型船をすでに造り始めていた。 その水軍または難民が追っ手を逃れてたどり着いたのが、あの金印で有名な志賀島ではないかという。
それから700年後の魏志倭人伝に、帯方郡の使者が倭人に「私は呉の太伯様の末裔だ」と言ったという記述がある。 また越人も日本に渡ったといわれる。古代、今の福井県から新潟にかけてつまり越前、越中、越後はまさにそのなのとおり、越(古事記等には古志と書いている)がついている。また、広島県の呉(くれ)は水軍または造船と言うつながりが興味深い。こちらこそ呉の末裔か。

そんなことで、この倭村の周りの地名にも焦点を当ててみる。まず倭村の南の高社山山麓に隣接するのが科野(シナノ)村というのがある。信濃の国(古事記では科丿国)の語源は「科=シナ」シナノ木だと言う。シナノキは落葉の高木で日本特産である。その皮、シナ皮は繊維が強く太古から縄、牛馬の手綱、科布として使われていた。今でも大型船舶の太いロープはこれが使われているようだ。海人にとっても航海に欠かせないのがロープだ。須坂市のホームページに旧安曇野村の方が最近まで科布を織っていたという記事があった。 この科野村は、やはり廃藩置県の後に町村合併によりつけられた。「赤岩」「深沢」という村となんと「越」という地名の村がある。
柳沢の対岸西に位置するところが「壁田」という。この「壁」という字はもちろんカベの意味でもあるが、古くは鉄製の丸い鏡のような形をした飾りのことをいっていた。それは卑弥呼が魏から授かったと言う三角淵神獣鏡よりは少なく、弥生時代、古墳時代の副葬品として見つかっている。非常に珍重された物のようだ。
また、その南に「厚貝」(アッカイ)という地名がある。先ほどの安曇地の一つに「厚海」(あつみ)というのがあったがこれを音読みすると「アッカイ」だ。この壁田と厚貝の地名が他にあるか探してみたが見当たらなかった。両方とも非常に珍しい地名だ。「壁田」の田という文字はもちろん稲作の田んぼでもあるが、例えば油田のように「採れる場所」といういみでもある、つまり「壁」を作った場所か、見つかったところ等と解釈もできる。また厚貝については文字通り読むと厚い貝となるが、海のないこの地にはふさわしくない名前だ。安曇地の可能性はないか。
柳沢の北、同じく高社山山麓に「田上」という地名がある。飯山在住の郷土史家の松沢氏は「田の神」ではないかと言っている。「上」とは日本語では「御上」「うえ様」という言葉の通りいわば天上人のことだ。縄文人の時代からあった「カミ」という和語に当てられたのが中国から伝わった漢字「上」だ。上イコール神であるといえる。 中国にはいわゆる「神」という概念はなく、古くは示す辺の文字だが、それの意味は「神仙」つまり仙人のことだ。道を教える人→「農業指導者」というのが語源だという。神社の祭りの根本は豊作祈願など農業が主体だ。古代において農業の指導者はまさしく神であり、「神」という言葉が根付いたのだと思われる。
いつの間にか日本では「上」は人、「神」は人に非ずとなった。 いつも感心することだが本当に日本人は和語に漢字をうまく当てて使いこなしたとおもう。近代ではアジアの中でいち早く欧米化に進んだ日本は万国公法等の翻訳が必要となり新しい概念を伝えるために作られた和製漢語が沢山ある。例えば、文明、文化、経済、などなどきりがない。
飯山をさらに下って信濃川になったあたりに「津南」という地名がある。これは港の南ということになるが、何か意味があるのだろうか?
郷土史家がまとめた本で「ムラの歴史」という本をみつけた。これは北信濃のムラの名前の由来を6〜7年間にわたって、北信ローカルと言う地元紙に連載されたものをまとめた本だ。その中で特に「田上、厚貝、壁田」については、その歴史は古く、名前の由来が不明であることがわかった。なお、倭村、科野村はいわゆる、合併後の集落の名前でこの本にはなかった。特に驚いたのは「厚貝」については「とんでもない名前を発見した」と、著者がわざわざあとがきにも書いている。もちろん安曇族の記述はない。

魏志倭人伝が古代の日本人を知る手がかりとして、その解釈について江戸時代から謎解きが繰り返されてきた。手がかりはそれしかないからだ。中国には「中華思想」というものがあり、中華が世界の中心であり、周りの国はそれに従うものだと決めつけている。漢字どころか、文字すら持たない文化の周辺国の地名や人の名前に漢字で「卑しい」字をあてている。匈奴とか卑弥呼とかがそれである。 「倭」はその意味で卑しい字なのだろうか?漢字がどんどん日本に入ってきて、しだいに漢字を理解しはじめたときどんなことを考えたのだろうか?「 Wa」と発音していたものが、和語だと思われる「やまと」と発音されたのはいつのことかそしてそれが「大和」という漢字を当てたのはいつのことか知りたい。

松本清張の「清張通史1-邪馬台国」に面白いところを発見した。 「東夷伝」の中で陳寿が「史記」などの資料をもとに引用したと言われるところ
「東夷は、天性従順で北○、西○、南蛮(字が出ない、要するに中国を中心として周りの野蛮な国をさす)とは異なっている。それで孔子は中国ではその道徳が行われないことを嘆き、イカダに乗って東方の海に乗り出したいと言った。あたかもよし、楽浪郡の東南にあたる海上には倭国がある。」 孔子はこの魏志倭人伝の頃より700年近く前のBC500年頃の人だ。これは孔子の思想「論語」にもあり、有名な箇所ということだ。 当時の中国の事情では彼の思想に耳を傾けて実践していくにはもう限界で、東の海にある島に住む倭人は「天性従順」、つまり素直に聞く?話がわかる?のでイカダで海を渡って行きたいと言っていたのだという。
その史記の内容をそのまま引用するかのように陳寿が魏志倭人伝の冒頭に書いているのが、「その国の人は長寿で、百歳の人も珍しくなく、普通で70、80歳。婦人は嫉妬せず、争いもなく、したがって訴訟が少ない。」だ。
また、孔子は それよりさらに500年も前の呉の太白(BC1000年)の礼節さについて評価している。それより数百年のちに大陸に渡ってきた倭人の中に「私は太白の末裔だ」と言ったというあの太白である。
中国系日本人(2007年帰化)の評論家の石平氏は、留学のために日本に来て驚いたという、中国ではとっくに忘れられゴミのように扱われた孔子の「論語」が日本では大切に扱われ多くの研究者がいる。そして日本人の世界でも稀な礼儀正しさは奇しくもこの古代中国の教えを長い年月に培ってきたからだと気がついたというのだ。
呉の太白も、孔子も「礼」という共通があり、日本人が呉の太白の末裔という説は、捉えようによっては結びつくのではないだろうか。そして聖徳太子の「和をもって貴し」へと・・・。

この「東夷伝」にはさらに、倭国以外の国のことも書いてあり、その表現はあまりにも違いすぎて驚きだ。
「夫余」= 処刑は厳しく、人を殺す者はこれを殺し、その家人は没収して奴婢にする。一を盗めば十二を取り上げる。男女は淫で、嫉妬する夫人は皆殺す。殺した死体は山の上にさらす。
「高句麗」=その俗は淫ら
「ユウロウ」=冬はイノシシの脂を体に厚く塗って寒風を防ぎ、夏は素っ裸、わずかな布で前後を隠す。不潔で、便所を室内の中心に作り、その周りを家族が囲んで暮らしている。
「韓」=その俗は風紀が乱れている。北方の郡(楽浪・帯方郡=朝鮮半島の南側)に近いところは、やや礼俗を知っているが、遠いところはまるで囚徒や奴婢の集まりのように粗暴である。
・・・・これはあくまで「東夷伝」にあるものだ。「清張通史1-邪馬台国」より。
これをみるかぎり、「倭」は決して「卑しい」扱いではなく、しかもあの孔子が「儒教の神仙思想」であって理想郷の例えているだけだとは言われているが、全く根拠がないとは言えないのではないのだろうか。
太白には子供がなかったので、末裔という言い方はあり得ないということを言っている人もいるが、もしかしたら太白の隠し子が、およそ3000年前に船で日本に渡り、その子孫が縄文人に同化したのではないか。まさに縄文社会は争いのない理想郷だということの意味も含めて。

2014.10.12