倭その1
 倭その2
 倭その3
 倭その4
 倭その5

 夕焼け小焼け
 日本人のルーツ

倭がヤマトと読むことになったことについては、

一説があった。 古事記においてヤマトタケルに筑紫の豪族(現代の北九州あたり、倭人のいたところという)が殺されるとき、「以後この地をヤマトとお呼び下さい」と言ったという。ちょっと強引な感じもするが、もともと漢書の倭人伝には北九州と対馬、朝鮮半島南東部に住んでいたということになっている。つまり倭種のひとびと。その後、後漢書では倭を「大倭」という表記になり、それが大和に変化していった。 要するに「やまと」とはもともと和語であったのではないかと思う。ハヤトとかクマソ、エゾ、ヒダなどのようにその一部の人たちを中国人が倭人と呼ぶようになった。それは「従順な人」という意味だったようだ。そのうちにヤマトという「音」の一部豪族が勢力を伸ばし、北九州あたりを統括していたので「倭人のクニ」=ヤマトになった。
邪馬台国が中国人によるヤマトの聞き間違いの当て字だという説もある。その辺の論争はあまりにもたくさんあるので避けたい。 いずれにしろ、ヤマトは大倭から大和になった。でもよく考えてみても音訓が確立する前なのか後なのかわからないが大和という文字をヤマトと読むのはおかしい。ヤマトタケルが日本武尊と書くのも変だが。結局「倭」が卑しい字で使われなくなったのか否かはわからない。ただ妙なところがある。それは「ワ」という音だ倭も大和の和も「ワ」で共通している。現在和食とか和服とか和紙とかの「ワ」は日本という意味だ。ということは大和の和は中国語の倭を継承しているのか?
ところで面白いことに気がついた。時代が過ぎて蝦夷と言われる人々がヤマト朝廷から討伐されるときその抵抗勢力である彼らを「まつろわぬものども」と言った。つまり従順ではないということだ。もともと中国人が従順だと呼んだ縄文人=のちの蝦夷。倭人と蝦夷は対義語?になってしまう。
また、魏志倭人伝の卑弥呼に送ったと言われる金印の「漢委奴国王」だが二番目がイ偏のない委だ。これは中国の語源としては稲穂が頭を垂れる、曲がった様子を表しているという。つまり倭国ではないということだ。この頭を垂れるということから委にイべんをつけて「従う」という意味だというのだ。つまり漢に従う奴国の王ということだと説明している。「奴国」とは志賀島のあたりのクニだという。この委という文字は川が蛇行したところなどによく使っているようだ。我が倭村の命名の際この中国語の本来の意味を知っていてつけたのかもしれない。つまり千曲川の蛇行するところの村という意味で・・・。
縄文人の基礎になる細石刃を使った北方のシベリアの人々がマンモスなどの大型動物を追いかけながら凍った海を渡ってきたのは20,000年前と言われている。中氷期の最寒冷期になり気温が10℃も下がったためだ。その後北海道経由で凍ったオホーツクを本州に渡った。このころ、いわゆるアジア大陸から渡ってきた形跡はない。NHKの番組で北極だったか17,000年前の氷の層を分析したところ17,000年前のある時のわずか5年の間に気温が5度近く上昇したことが最近分かったという。縄文人がもう日本列島にいた頃だ。海面は一気に高くなったことになる。20,000年前東京湾は陸地だったという、現在よりも海面が100メートル低かったというのだ。いままでの常識では長い間少しづつ海面が上昇してきたと思われていたが。みるみる海面が上昇したと言ってもいいくらいだ。それほどの劇的変化があったということだ。近年の温暖化による南太平洋のツヴァイのように。また、火山の爆発による噴煙で異常気象も起こる。大きな爆発だと、異常気象が何十年にも及び人類の人口が激減したことも考えられるという。縄文人が激減したことも渡来人に追いやられたのではなく異常気象かもしれない。近頃の異常気象なんて比べものにならないのかもしれない。
私が常々疑問に思っていたのは竪穴式住居が積雪に耐えるのだろうかということだ。私が生まれた柳沢は平均積雪量が最大75センチで、現代でも屋根の雪降ろしをしている家はほとんどない。ところがほんの数キロ千曲川を下った飯山に行くと積雪量は2〜3メートルになる。当然屋根の雪降ろしをしないと木造家屋は潰れる。柳沢のあるみの倭地区は屋根の雪降ろしをするかしないかの北限に位置するということだ。もちろんこれは現代の話である。縄文、弥生時代においてはどうだったのだろうか。3,400〜4,400年前の縄文後期の1,000年間は温暖でその後、寒冷が500年続き、また弥生時代の2100〜2,600年前頃は温暖になったようだ。その温暖な縄文中後期には三内丸山が栄えた。 年間平均気温が現在と1〜2度高かったと言われる。この柳沢遺跡の銅鐸と銅戈が埋められたのはちょうど温暖化して100年ぐらいの西暦0年ぐらいのことだ
柳沢遺跡の資料をもう一度読み返してみた。柳沢から南へ6キロほど行った栗林遺跡で明らかになった「栗林文化」は、善光寺平あたりからここ柳沢まででひとくぎりをつけられるというのだ。見つかった首長級の墓の形式がはっきり柳沢以北つまりそれより千曲川下流の飯山とは違っているというのだ。いわゆる「族」が違ったというのである。私は実感としてこの地に住んでいたので雪の量は明らかに違うのがわかる。当時がどうであったたか調べることもできないがたぶんそういうことだと思う。ちなみに余談だが、父母の呼び方の「とうちゃん、かあちゃん」が柳沢を境に北では「とうちゃ、かあちゃ」と「ん」がない。 さらに資料では柳沢遺跡で埋蔵された遺物の極めて重要な内容、大掛かりな祭祀があったこと。首長級の埋葬状況などがあることなどから、柳沢は水田の耕地の狭さと住居跡の少なさからその首長級の人物が住んでいたような大きな集落があったとは考えにくく、むしろ栗林遺跡あるいはもっと広く現在の長野県の半分を支配するぐらいの種族の何らかのシンボル的なな場所、つまり集落とは違うなんらかの「聖地」であったのではないかというのだ。 後漢書にある「倭国大いに乱れる」という記述がある。この動乱の余波はこの北信州にも及び、なんらかの出来事で集落解体せざるを得なくなり、信濃中・北部の栗林文化を作った連合体の盟主が各集落に分配していた青銅祭器をとりまとめ、種族の文化圏の北限、聖なる高社山の?にある柳沢の地に結界の意味をこめて刃先を北に揃えて今からちょうど約2000年前に埋納したというのだ。・・・と考えれば説明がつくのではないかというのだ。
私は資料にある埋納された銅鐸と銅戈の写真を見ていて全く違うことを想像した。このようにまとまって銅戈が出るのは珍しいことではないという。そして銅戈は武器であったことは明らかになっているが、しかし見つかったものは武器としての役割は果たせないようだ。つまり祭祀用に作られたもので先端がまるくなっているというのだ。祭祀用に作った?それにしては長さが不揃いだ。また、銅鐸の科学的分析結果も出ていた。これも年代が違うかどうかはわからないが、ここで見つかったものは大きさはほぼ同じだが身の厚さが違う、さらに成分がそれぞれ違うというのだ。前出の国土交通省の研究員の言葉を思い出した。「銅鐸は出来立ての赤銅色10円玉のように光り輝いていたようです、風で揺れたのかあるいは誰かが揺らしたのかはわかりませんが、綺麗な金属音がしたでしょうね。」銅鐸は明らかに楽器だ。そして成分や厚みがちがということはその音も違うはずだ。 つまりこういうことだ。銅鐸8個大きさがほぼ一緒、ただし成分厚みが違う。銅戈8本長さがすこづつ違う。銅戈も楽器だったらどうだろうか。両方とも楽器であれば一緒に埋納したことは納得がいく。しかも8音階づつ二種類の楽器がある。 どれだけ豊かな音楽ができるだろうかと想像するだけで楽しい。 もちろん残っているのが青銅器のこれだけであって、木でできた、あるいは土でできた土鈴のようなものもあったかもしれない。ボンボコ、チンチン、カラカラ、オーケストラができる。 ある時はみんなを老若男女を楽しませてくれ、または祭りで炎の燃えさかるる周りで、トランス状態を作り出し神と一緒の踊りに酔いしれた? かもしれない。そんな大切な楽器をなんらかの事情で土の中にそっと埋めたと考えられないだろうか。 どうも学者の方々の資料を読んでると、アートの発想が少ないように思う。 例えばこの柳沢遺跡でも見つかった土器の鹿の絵についてどこかの鹿の絵に似ていてどこかの鹿の絵とは似ていないからなどとグループ分けしている。それは私は疑問に思う。なぜなら引っかいたような単純な絵である。 鹿は神聖な動物で崇めるということは共通としてあったとしても地域や人によって鹿の絵は違っていても同じであってもおかしくはない。 なぜなら初対面の人を集めて鹿の絵を描いてくださいと言って描いてもらい。この絵はこのグループとかこの絵はこのグループと分けるようなものだ。 先日尖り石遺跡で見たビデオで、縄文人の火炎土器が一つとして同じものがないこと、遠く離れたところで別々に作られたことから「模倣」なのかあるいは焚き火の炎を見てそれぞれが同時多発的に独自に発想したのかを考えているテーマがあった。つまり模倣だとするととんでもない交流範囲を説明しなければならないし模倣でないとしたらなぜ縄文人だけ世界に稀なデザインを発想をしたのか・・・・・答えが出ないのだ。

2014.11.3。