倭その1
 倭その2
 倭その3
 倭その4
 倭その5

 夕焼け小焼け
 日本人のルーツ

日本人はどこからやって来たのか

現時点、つまり2014年11月の時点でさまざまな情報を元にした考えられる「日本人のルーツ」を私なりにまとめてみました。
およそ23000年前ごろからシベリアで住んでいた人々が20000年前の氷河期の終わりごろ、最寒冷期にマンモスを追いながら千島列島経由で氷上を歩いて日本列島に渡ってきた。日本列島で見つかっている縄文人のミトコンドリアDNAがシベリアのマルタという集落にあった人骨と他のアジア系と比べて90パーセントの確率で一致したこと、また動物などの骨を加工してとがった石を骨のみぞに並べて埋め込み鋭いナイフのようなものを作る細石刃が日本の石器人に伝わったことなどがその証拠といわれる。ブリヤートと呼ばれるバイカル湖畔の人々だ。
それから次第に温暖になり18000年前ごろからマンモスを代表とする大型動物が激減する。温暖な気候に合わなかったか狩をしすぎたとも言われる。人々は小動物を獲るようになるが、それでは足りず、魚や植物の実を獲るようになる。この人たちが食べ物を保管するため、または煮炊きするために土器を作ることをはじめ、土器文化の縄文人の基礎となる。
一方南方からも温暖化とともに黒潮にのってやってきた海洋民族が沖縄、日本列島に渡ってきた。 彼らは石をたたいて先を湾曲させ丸のみのような石の斧を作る技術を持っていた。磨製石器というその斧で丸太を削り丸木舟やいかだを作った。
ひとつの要因として、現在のタイ、インドネシア、ボルネオとフィリピン辺りにあったスンダランドでの温暖化による海面上昇による水没が大海へと人をいざなったと言われている。スンダランドの残った一部のジャワ島などでは世界で一番石器時代の人骨が見つかっている。彼らは火を使い洞窟で暮らしていた。
その磨製石器が9500年前ごろの地層から太平洋側の各地で見つかっている。また磨製石器を使い船を作った海洋漁猟民のムラの遺跡が鹿児島で発見された。この上野原遺跡が日本最古の定住集落とされている。
15000年頃には日本列島は日本海にも温暖な海流が流れ込み始め、大陸からの気流に雲が発生し雨や雪を降らせ湿潤な気候へと変わっていきやがて現在の気候に近くなった。多種多様な動植物、海に囲まれ、魚も豊富な日本列島は北方系と南方系の人口が増し人々の融合がおき縄文人が形成され列島全域に広がった。
縄文人は世界的には新石器時代にあたる頃この日本という島国で土器という独自の文化で発展していくことになる。
つい先ごろ新宿加賀町の12000年前の地層から多数の縄文人の人骨と煮炊きした土器が見つかっている。現時点で世界最古の煮炊き用の土器ということになっている。
簡単に12000年以上というけれどもこの長い時間が、大陸とは違い大規模な侵略もなく、また争いの形跡がない縄文人という日本人の基礎を作るための時間であったと考える。
また、現代も自然災害の多いこの列島は当時はもっと火山活動が盛んであったことが分かっており、島国で逃げ場のない彼らは地震や津波、水害、などの災害に見舞われたたびに生き残るための知恵を学び、またお互い助け合って生きていたことが想像できる。
縄文晩期のの7300年前、鹿児島沖の鬼界カルデラの海底火山が大規模な噴火を起こす。その規模はピナツボ火山の10倍と言われている。南九州は長い間、環境に影響があったと言われている。このとき、鹿児島の上野原の集落は全滅した。
西日本側の縄文人はこの頃激減したといわれている。
アマテラスの伝説はこのときの火山灰による暗天ではないかという説もある。
縄文文化は八ヶ岳山麓の中部高地、関東平野、東北全土に栄え、青森の三内丸山は5000年前ごろから1000年以上にわたり大規模な集落があったことが分かっている。エジプトではピラミッドが作られた頃である。
その後、今から3000年前。つまり紀元前1000年頃から、現在の中国、または朝鮮半島から稲作をする農耕民族が高度な文明を持ち、海を渡ってくることになる。彼らは主に海洋民族との融合した縄文人のいる北九州に上陸した。
彼らは環濠住宅という集落の周りにお堀を作る習慣があった。これは外敵からムラを守るためであり、争いがあった民族だということだ。戦争難民であったかもしれない。
彼らは人を殺傷するための武器も持ち込んだ。これが縄文人を侵略し長い時間をかけて融合した。渡来系弥生人という。稲作という意味では弥生時代の始まりだ。武器を持たない未開の縄文人を殺し、あるいは奴隷にしていたかもしれない。侵略をかさね西から東へとその勢力を増やしていく。それに伴って稲作も日本列島に広がっていくこととなった。
徐々に東へ進んだが東日本は縄文人の数が多くその抵抗にあったのか、およそ200年続いた侵略は濃尾平野あたりで止まったと言われる。
およそ紀元前800〜600年ごろ。東日本の縄文人との融合が強まり、縄文人の特徴と渡来系弥生人の特徴の骨格を持つ混血の子供の全身骨格が濃尾平野で見つかっている。
縄文系の多い関東から東北で熱帯ジャポニカ米と温帯ジャポニカ米の掛け合わせのコメができ、早稲の品種が作られるようになった。その米は寒冷に強く、一気に水田稲作が日本中に広がった。縄文人が渡来系弥生人を受け入れ、大陸の文化を吸収し、弥生文化というものを作り上げていくこととなった。これが現代の日本人へつづく弥生人だ。
つまりおよそ20000年前ごろから北方からそして南方からたどり着き、12000年以上かけて培われたこの縄文人という独特の文化を作った人々の血は弥生人を通して現代の我々に連綿と受け継がれてきたということだ。それからまだわずか2000年しかたっていない。

2014-11.19