倭その1
 倭その2
 倭その3
 倭その4
 倭その5

 夕焼け小焼け
 日本人のルーツ

その2---「倭」の地名をあえてつけた経緯のヒント探しに

長野県中野市図書館に行ってみることにしました。 途中、長野自動車道更埴インターでおりて篠ノ井の国土交通省長野県埋蔵文化財センターに寄ってみました。柳沢遺跡の発掘を中心となってやっているところです。1000円の「柳沢遺跡中間報告書」がプレミアがついてネットで3000円で売られていたのを私は買いました。その発行元です。 何か埋蔵物ではなくてもパネルでも展示してあるのではないかと思いふらりと寄ってみました。すると建物は古く誰もいないような閑散とした雰囲気でした。奥から出てきた女性に柳沢遺跡について聞いてみると「何もご覧いただけるようなものはありませんが、担当を呼びます」と言い、しばらくすると広報?担当の方が見えて、「ぜひ発掘時の主任が今日はおりますのでお話を聞かれたらいかがですか?」とすすめてくれました。 私も知識の乏しい、にわか考古学ファン?なので難しい話をされても困るので・・・「突然来て失礼では」と辞退したが「せっかくですから是非に」といわれて奥の研究室に通された。まだ若い主任研究員は私を賓客扱いして丁寧に出迎えてくれた。 国土交通省としては国費を使っているので私のような発掘調査に少なからず興味を持ってくれる人は大歓迎のようだ。 そこで1時間半ほどマンツーマンでたっぷりと話を聞くことができた。
柳沢遺跡の発掘により、長野県北部の弥生時代は今までの想像以上に人の流れがあり近畿、九州地方にとどまらず、大陸とも交易があったのではないかという話だ。長野県は縄文から弥生時代の遺跡が日本中最も多く見つかっているところで特に松本、安曇野から北は遺跡の宝庫だ。柳沢遺跡の背後にある高社山は独立峰としてかなりの範囲(安曇野からも)からみることができるのでランドマークだったのではないかと言う話も聞いた。柳沢遺跡はまさにそのランドマークの真下にある。 またその主任研究員は柳沢遺跡の北、飯山から直江津へ通じる道がかなり古く縄文時代から使われていたこと(縄文人も交易していた?)がわかってきたようで、必ずしも信濃川だけが流通のかなめではないのではないかという。
何れにしても柳沢遺跡は善光寺平、松本平へ通じる入り口にあたることは確かで柳沢遺跡の重要性をからめて、その古道の興味にかりたてられているようだった。帰りに柳沢遺跡の発掘調査報告書(2012.3)が一冊だけ手元にあるというので6,000円で買ってきた。450ページぐらいの立派な本だ。これは定価である。
中野市立図書館では、半日かけて信濃の歴史、倭村の古文書「倭村会議議事録」などをみたが、倭村命名につながるものは見当たらなかった。このほか図書館には膨大な古文書の目録があり、これらはすべて所有者の名前が書いてあるだけだ。ちなみに私の実家の近くの大原勇さんが所蔵が多いことがわかったが、既に他界されている。
廃藩置県後に柳沢村と田上村、岩井、岩井東村が合併して倭村になったこと、役場を田上村におくことなどは古文書で確認できた。 安曇野の歴史の本もあったので確認してみたが、そこにも安曇野の倭村には特別なものがなかった。

意外なところに「もしかしたら」というヒントがあった。 柳沢村には「日高見神社」という名前の神社があり、子供の頃この境内で毎日のように遊んだ。柳沢村は坂ばかりの傾斜地のため広場と言えば神社の境内しかない。 この日高見神社という名前が気になって検索してみると宮城県の石巻にあった。氏神がヤマトタケル。 日本書紀によると西暦95年に景行天皇の命により東征、つまり北陸や東国にヤマトタケルを派遣したとあります。
日高見国という名前の国が東北地方を中心にあってミチノク族という人々が住んでいた。 ミチノク族はヤマトタケルに降伏し、そのときから日高見国と呼べなくなった。 征伐したヤマトタケルが氏神の日高見神社ができた。日高見神社は北上川にあり、日高見という名前の地名は今存在しないところからどうやら日高見が北上にかわったのではないかと言われています。 また別な古文書「ホツマツタエ」(古事記、日本書紀とは別なもので後述)という文献ではもともと日高見国は大和王朝ができるもっと以前ヒダという神に仕えていて日本各地にあったとされています。ヒダはいわば太陽神で、「天成道」という学問があり天照大神もこれを学んだのだというのです。 紀元前に学問?とはちょっと厳しい気もしますが。なにせ縄文末期ということになりますので。 ヤマトタケルが東征に出る頃には西の日高見国はすべてヤマト王朝の支配下になっていたということらしい。熊襲とか蝦夷とかいろいろありますがどれも確証がある訳ではないのですが。 各地にあった割には日高見神社はいまのところ他にはみあたりません。 もしかしたら上の理屈で行くと日高見国がこの柳沢遺跡のあたりにもあったと考えることもできます。
ヤマトタケルは日本書紀では日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と書きます。しかし古事記では倭健命と書きます。 これは憶測ですか、明治の合併の際、村の名前を考えたとき、柳沢村の神社の氏神である倭建命の倭とつけたのではないか? と思った。そこで私のふるい友人で全国の神社の写真を撮っているカメラマンにメールで訊ねたところ、曰く、「神社は氏神を変更することはよくあって明治時代は特に多い、しかし日高見神社は初めて聞いた」と書いてきた。 明治維新後の軍国主義にふさわしいヤマトタケルを氏神にしようと考えて神主から「日高見神社のことを知り」それにした。 これはちょっとありそうな感じがしますが・・・・。 しかしそれではあまりにも短絡すぎます。まだ「あえて倭」というところが払拭できません。それに他村が納得しないような気がします。ちなみに合併の中の一つの村、隣の田上村の神社は「豊国神社」豊臣秀吉を祀っています。これは全国各地にあります。倭村ではないとなりの赤岩村の氏神は高社山でその名も「高社神社」です。
まず調べなければならないこと、この柳沢遺跡のすぐ近くにある「日高見神社」がいつ頃からあって、こう呼ばれているのか? もしヤマトタケルの神話の年代が正しければ柳沢遺跡で祭祀が行われたであろう西暦200から300年よりさかのぼること約250年前のちょうど西暦0年頃にこのあたりはまだ日高見国であったということになる。
この「日高見国」のことが気になってしまいいろいろ調べているうちに「ホツマツタエ」という古文書の存在を知った。 書かれたのは少なくとも江戸中期以前とされているが七五調で書かれていて、ヤマトタケルをヤマトタケとなっていたりする。その書かれた文字だとする漢字以前の古来の文字もあるとされているがあまり信憑性はないようだ。
日本語は渡来人の影響をほとんど受けることなく現在に至っているのは、よほど完成された言語であったという証だという。 そんな日本語、和語を育んできた縄文人とはいったいどんな人たちだったのか?
渡来人によりもたらされたとするわずか600年の弥生時代の遺跡からは武器が見つかり、頭骨に矢が刺さって死んだと思われる人骨が見つかっている。それ以後争いの絶えなかったことがわかっている。 しかし12,000年とも20,000年とも言われる縄文時代の遺跡からは全くといっていいほど武器や争いの痕跡が見つかっていない。
魏志倭人伝の最初のところにある
「その国の人は長寿で、百歳の人も珍しくなく、普通で70、80歳。婦人は嫉妬せず、争いもなく、したがって訴訟が少ない。」 これらからわずかに想像できることは、何度も大地震や津波に遭い、台風等による水害や土砂崩れに遭いながら、飢えや寒さに耐えて、工夫を凝らし、食物を貯蔵し、助け合うことで生き延びるのに必死だったのではないだろうか。 また世界の古代文明は天災や無秩序な自然破壊に寄って起きた水害や砂漠化で滅んでいる。 しかし縄文人は、自然を神とし、自然を守り、他者を受け入れ、分け合い、まさに「和をもって貴し」を実践していたのではないだろうか。
そんな人たちが間違いなくこの日本そして北信濃の地を行き来していたのはまぎれもない事実でランドマークとして現代と同じこの高社山をみて崇め、親しんでいることはなんとすばらしいことだろうか。
2012.9.18