倭その1
 倭その2
 倭その3
 倭その4
 倭その5

 夕焼け小焼け
 日本人のルーツ

その1---私が卒業した小学校は長野県の中野市立倭小学校です。

長野県北部の小さな四つの集落がある地域の名前です。以前は旧下高井郡倭村という名称でした。 ネット検索すると倭という漢字の小学校は日本で二つしかありません。三重県津市とこの小学校だけです。これは「ヤマト」と発音します。 同じ読みで「大和」は数えきれないほどあります。
この倭は、ご存知のとおり魏志倭人伝の倭人と同じ字です。 倭は音では「わ」です。大和の「和」=「わ」、つまり和食、和風などに使われる通り日本という意味です。 ネットで意味を調べると倭と大和は同じ意味です。 また、日本武尊はヤマトタケルと読みます。 ただ戦艦大和などにも使われる大和は、社名や地区名など数多くあります。名字もあります。しかし倭という地名、姓は聞いたことありません。ただ人名には 「倭一」など少しはあります。 なぜでしょうか?
それは魏志倭人伝の解釈にあるようです。倭人とは背が低く、小さく、薄黒く、汚くまたは野蛮な、醜いというような解釈もあるようです。(矮小という文字との関係はわかりません) 中国から見た日本人を蔑視する言葉として使われていると解釈したということのようです。ただ別な解釈では倭という字は「遠い」という意味であるということです。 倭人は遠い国の人(中国から見て)といこと、つまりそれが日本であると。
倭という字を使うことはたぶん江戸時代に日本の古代史研究が始まった頃から間違った?解釈に陥ったのではないかと考えたのです。 倭はたくさん使われていたかもしれませんがあるときから使わなくなった、または同じ意味の大和に変わっていったのではないかと思います。 その理由は多分、矮小と同じような意味で倭の意味は「規模が小さくて丈が低く小さいこと」そんな卑屈?な名前をわざわざ村に付けなくてもいいと思うからです。ではなぜ私の生まれた地域はこの倭村という名前なのか?あえて「倭村」としたとしか考えられません。なぜ?ある意味では日本村でありある意味ではちっちゃな村。 そんなわけで、村の名称の由来を調べてみようと思いました。 ネット検索すると「倭村」は三カ所出てきます。やはり異常に少ないです。 長野県の南安曇郡(現在は松本市)と先ほどの津市と私の生まれ故郷です。

いろいろ、調べているうちに面白い本をみつけました。 亀山勝さんの著書「安曇族と徐福 弥生時代を創り上げた人たち」(2009年・龍鳳出版・長野市)です。その中身は・・・。 中国の戦国時代(BC400年頃)秦がまだ天下統一する前。戦争に負けた越の人たちが海を渡って亡命してきました。それが博多の志賀島。そうあの金印が見つかった島です。 そこに住み着いたのが海人と呼ばれる安曇族です。安曇族は本来ならば中国に戻り再興を遂げるつもりでした。しかし秦の始皇帝が天下統一を果たし、それはかなわなくなりました。やがて歳月がすぎ安曇族は倭の国と中国とを結ぶパイプ役として機能し、日本に稲作を伝え、日本中にその勢力を広げ、稲作の農耕を拡大つまり弥生時代を作りました。日本各地に安曇、渥美などその語源と思われる地名がたくさん残っていています。縄文人とは骨格も違い明らかに現代の日本人はこの安曇族の末裔または混血とされています。ただし縄文人も様々な渡来人DNAが確認されており、はっきりと区別はできないようです。 それから、安曇族が志賀島上陸から200年が経ちました。秦の始皇帝の命により徐福という道士が不老不死の薬を探しに日本にやってきます。その道案内をしたのが安曇族だというのです。安曇族は中国との交易の傍ら中国から重税に耐えられない人たちの倭への入植も斡旋していました。徐福は秦の始皇帝に様々な鉄器や物資、五穀、それから3000人の少年少女を準備させて日本に渡ってきました。徐福伝説は最近では人物は実在したということになりつつあるようです。ただどこに上陸したのか本当に日本に来たのかさえわかっていません。でも日本列島の特に日本海側にはたくさんの徐福上陸の地といわれる碑がたっています。そして中国の歴史書には徐福たちはついに帰ってこなかったということになっています。 3000人を越すたくさんの入植者を受け入れるために白羽の矢がたったのが長野県の安曇野でした。全国に散らばった安曇族の中でも最も規模の大きいのが現在も安曇の名がそのまま残っている安曇野です。 さてなぜ安曇野かということですが、安曇野はわき水が豊富で谷間から平野が広がっていて水田を作るのに適していたことであるとなど条件はそろっています。一説では新潟県の糸魚川から姫川をのぼり安曇野についたというものですが、亀山さんはこれを否定しています。陸路がまだほとんどない時代、姫川は海から川を上るには急流すぎます。それよりも信濃川からつまり千曲川を船で上り安曇野にたどり着くルートです。このほうが平坦です。
それでこのルートを裏付けられるかもしれない発見が2007年に見つかりました。 柳沢遺跡と命名されたそれはなんと長野県中野市柳沢というところです。ここは私の生まれた旧倭村の四つの集落の一つでありかつ私の実家のすぐそばの(100mぐらい)柳沢地区です。千曲川の護岸工事をしているときに8本もの銅戈と5個の銅鐸がまとまって出てきました。 これだけまとまって出たのはまれで弥生時代のなんらかの祭祀の後ではないかと言われています。この発見は日本列島の弥生時代観を大きく見直す必要が出てきました。 それというのも発見された銅戈・銅鐸はいままで近畿以北の東日本ではあまり見つかっていないものだからです。北限がずっとのびたことになります。しかも海岸に近くはない内陸で。銅戈には九州型が1本、近畿型が7本が同時に埋納されていることから近畿のみならず九州とも交流があったことをを意味しています。 祭祀があったということと同時に墓も発掘されました。墓の規模からもかなりの人物が葬られたということに他ならず、少なくても近隣の族長であったことが推測されます。埋納された時期は弥生時代中期〜後期ということがわかりました。ほぼ2000年前ということになります。銅鐸と一緒に出土した埋葬品の土器にシカの絵も見つかっています。(柳沢遺跡の調査報告) 千曲川は(新潟県では信濃川)新潟から緩やかにのぼりこの柳沢で直角に蛇行しています。蛇行しているためえぐられて深度があります。つまり船着き場に適しています。 亀山さんはここに注目しています。(本を出版した後、発見されたためWebページで公開) さきほどの安曇族が大船団を水先案内し新潟から千曲川をさかのぼりこの柳沢の船着き場につき、ここからは陸路または小舟に乗り換え(荷物運びのため?)て安曇野に至ったのではないかと。つまりハブ港があったと。
以上まとめ 最初に登場の倭というあり得ない名前を、あえて村の名前につけた理由。そこにはなにかがあるのではないか? 安曇族、いや徐福の大集団が入植した安曇野に行くときに利用したであろうハブ港があること。 そして安曇野に同じ倭村が存在すること。 柳沢遺跡というまだ得体の知れない船着き場を中心としたそれなりの拠点?であったこと。 さらに山一つ超えたところは志賀高原(川から見ようによってはつながった山並み)。この志賀という地名こそ安曇族の志賀島(しかのしま)に関連していることも、あちこちの安曇族の拠点で見つかっていること。それはシカとも関係がありそうだということ。 わたしはこの辺境の小さな村にとてつもないものがまだひっそりと埋まっているのではないかと想像してぞくぞくしています。 倭村という名前がもしかしたら不思議な歴史ロマンのキーワードになるかもしれません。 村の伝承にまたは石碑に倭に命名するに関係するものがあるかもしれず由来を調べたく思います。まずはそこから そして船着き場の現地調査と地形から見たときのなんらかのメッセージを見つけ出す作業。 乞うご期待。
2012.6.8