倭その1
 倭その2
 倭その3
 倭その4
 倭その5

 夕焼け小焼け
 日本人のルーツ

北陸新幹線ルートと信州中野の柳沢遺跡

  2015年3月に開通した長野から飯山、上越、糸魚川、富山、金沢へと続く北陸新幹線のルートは東京からも含め。すべて栗林文化圏を貫いています。
栗林文化とは長野県中野市の栗林で見つかった弥生時代の遺跡、その土器や墓の作り方がある限られた範囲で一定の様式であることからそのように呼ばれています。栗林文化圏は長野盆地、佐久平などの長野県中・東・北部。新潟上越、糸魚川、富山、金沢、そして東は群馬、関東平野あたりまで及ぶとされています。柳沢遺跡から千曲川を4キロほど上流にその拠点となる栗林遺跡があります。
栗林式の土器は弥生中期の中頃から〜後半(おおよそ紀元前後)に作られ、そのあと衰退したとみられています。その衰退したと思われる頃になぜか柳沢で銅鐸と銅戈が埋納されたようです。この弥生文化の象徴であり貴重品である青銅器の銅鐸と銅戈が、ある意図を込めて土の中に埋めるという埋納行為は西日本、主に出雲、瀬戸内海の周辺、近畿などでいままで発掘されています。それが長野県北部のしかも海岸からは程遠い内陸の柳沢で見つかったことは信州のみならず東日本全体の弥生時代の解釈を改めなくてはならないことになりました。また青銅器を使った祭祀が水田稲作の普及とともにその祭祀の仕方、つまり精神をも東日本にまで伝えられたことの裏付けともなり、様々なものや人がより広範囲にアクティブに交流があったと考えられます。そのルートが北陸とのつながりを密にする栗林文化圏の存在から北九州あるいは出雲の先進文化が船の使用による日本海北上ルートがあったと考えられます。柳沢遺跡において見つかった銅戈の一つが九州型であったことも大きな意味があります。
縄文時代よりすでに列島各地に流通していた糸魚川の翡翠、その翡翠や管玉などの加工を行われていたことがわかった上越の吹上遺跡から飯山への陸路は比較的平坦で冬季でも容易に通れたと考えられます。柳沢遺跡で見つかった長野県内最大量の管玉からもその理由が伺え、まさにこれが北陸新幹線ルートです。もう一つのルートとして新潟市あたりの信濃川河口より船で川を上るルートがありますが、津南から飯山に至るまでの急流を超えることができるかが疑問です。ただこのルートは古事記の神話ではありますが、大国主の息子のタケミナカタが出雲からの諏訪神社にたどり着くための逃走経路だと言われています。またこの大国主は糸魚川の奴奈川姫と結婚したことも語られており、出雲と諏訪の神話も弥生時代の人々の交流という事実と関連づけられるのかもしれません。いずれのルートにしても柳沢遺跡を通過することとなります。柳沢は千曲川(信濃川)という日本最大の川のほとりにあり、ランドマークの高社山の麓に位置することから栗林あるいは中部高地に到達するための交通の要になったのではないかと思われます。

なぜ柳沢に銅鐸が埋納されたのか

柳沢遺跡は栗林文化の中核をなした長野盆地の北端に位置し、千曲川を超えた北は飯山盆地になります。この分け方は気候の変化による分類だと思われます。中野市の平均積雪量は70センチなのに対して飯山市は一気に2メートルを超えます。これも高社山の影響によると思われます。竪穴式住居の構造から考えた場合。確かな確証はありませんが柳沢は四季を通した永住型の竪穴式住居の北限と考えてもいいのではないかと思います。
柳沢遺跡で見つかった銅鐸と銅戈は北信周辺の部族から集められたもので、古代人にとって稲作の重要な祭祀の道具を柳沢に持ち寄りなんらかの儀式を行ったのではないかとされています。柳沢には住居跡が数少なく、火山灰土により土地は痩せ、居住地としてはあまり適していなかったと考えられています。しかし複数見つかっている石で囲んだ礫床木棺墓跡は部族長級の立派なものであり、各部族の族長級の人があえてここに埋葬されたと考えられます。このことから、柳沢は古代人にとっての「いにしえの地」だったのではないかと推測されています。高社山は鎌倉時代に噴火をし、柳沢は大きな被害が出たことがわかっています。なので、もしかしたら高社山は弥生時代は火山活動が活発で、噴煙をあげていたとも考えられます。長野盆地のどこからも見ることのできる独立峰としての山容からも、北の果てであることから雪などの季節の到来を知ったり、交通のランドマークであったりと、高社山は「聖なる山」であり得たと思います。その北側麓にあるのが柳沢遺跡です。


いつ埋納されたのか

銅鐸は謎に満ちています。日本列島に稲作が伝わったのが近年では紀元前600年とされています。銅鐸が稲作の祭祀に使われたとされているのが紀元前200年から期限後200年の約400年間の間とされています。銅と錫の混合で作られる青銅器は中国から朝鮮半島を経て日本に伝わりました。紀元前200年の日本は大陸から見ると野蛮な未開の地だと思われますが、青銅器の鋳造という高度な技術を受け入れられるだけの素養があったことは驚きです。さらに中国や朝鮮半島で見つかった銅鐸は10センチに満たない小さなものです。ところが日本列島では1メートルを超えるものまで様々な大きさのものが発掘されています。小さなものでも中が空洞になる構造から考えてかなりの技術が必要です。それが30センチとか1メートルとかの大きさになるまでにどのような発展があったのか謎です。これが、西暦200年頃になぜか全く作られなくなりました。柳沢でこの銅鐸が埋納されたのは、この銅鐸祭祀の末期、つまり西暦100〜200年前後頃と考えられています。このころは中国の東夷伝によると「倭国多いに乱れる」の時代であり卑弥呼が登場する前後であると思われます。一説には卑弥呼のような呪術(鬼道と表現されている)によって稲作の豊作祈願や雨乞い・天候占いなど新しい祭祀の方法が普及したからではないかと言われています。もしかしたら「倭国乱」を収めたという卑弥呼の勢力が北九州からどんどん制圧し始め、古いしきたりの銅鐸による祭祀をする民を駆逐したのではないか、あるいは信仰を変えさせる何かの力が加わったのではないかとも言われています。柳沢の銅鐸はその成分分析から原料である銅も錫も中国あるいは朝鮮半島のものであるということです。これが青銅で出来たものを再利用のために溶かして銅鐸を作ったのか、あるいは原料を一定割合に混合する技術があったのか、どこでだれが作ったのかまるでわかりません。また柳沢の銅鐸は最近、卑弥呼の墓があるのではないかとされ、邪馬台国の候補地として脚光を浴びた奈良県の纒向遺跡で見つかった銅鐸より製造時期が100年も前だということも分かっています。どのような経路でだれがこの善光寺平に持ち込み祭祀の仕方を教え、また、何の理由で銅鐸による祭祀を禁じられるかのように各集落から柳沢に集めて埋納したのか全くの謎です。
2015.3.28